Vol.186
宮崎県・諸塚温泉 曙
宮崎県 I さん
日向市街から平家落人伝説の椎葉村を結ぶ国道327号線を20分ほど西下すると、日向市美々町に流れ込む耳川の中流域に接する。この耳川の流れに沿って40〜50分のドライブで、今回の諸塚温泉に到達する。諸塚村は村の90%以上が山林で、山また山の村ではあるが、ここまでの道路は十分に走りやすく整備されている。春は山桜、秋は紅葉の観光道路として役立っている。
ところで、この諸塚温泉はいつ行ってもお客さんが少ない。先日訪れた時も、玄関先で地元の老婦人と女子中学生2人に出会って以来、浴室でも休憩室でもほかのお客さんと出会うことはなかった。おかげ様で私たち夫婦は、貸し切り状態という贅沢な一日を過ごした。経営者が建設業の社長だと聞いていたので、「これもありなのかな」と、変なところで得心したが、なんとも勿体無い話ではある。
諸塚温泉は四方を杉山雑木林の山に囲まれた、山間の温泉旅館である。市街地からも離れており、お隣りまで歩いても10分もかかってしまう、隔絶されたような一軒宿である。お伽噺では雀のお宿に招かれるとか、そんな想像上の桃源郷を想起させる。今回は入浴前に昼食をとるために、食堂兼用の休憩室に入った。1組のカップルと3人の婦人会らしき連れが、地元の食材に舌鼓を打っている。36畳の広々とした休憩室にこの2組だけである。室内には春の木漏れ日が充満し、午後の気だるい心地よさを漂わせている。
私たち夫婦は760円の「地鶏うどんセット」を注文する。前回美味しかったからである。食事のメニューは多彩であるが、「馬鹿さし」というのが目に留まった。馬刺身と鹿刺身のセットだという。説明を読んでなぜか納得し、苦笑してしまった。
食事を済ませ、さて入浴の段となって妻は眠いという。どうせ男女別湯である。妻は森林浴、私は温泉浴とそれぞれの勝手である。小綺麗な脱衣所で裸になり、デジカメを片手に浴室に入ると案の定誰もいない。十二畳ほどの浴室に四畳半位の浴槽が配置されている。無色無臭の温泉ではあるが、水面に屋外の森林の影が映って深い緑がかった色合いを呈している。湯質は美人湯といわれる独特のぬめりが感じられる。自噴したものを掛け流しにしたやや温めの湯加減が私の好みである。サウナも露天もあるが何か全て小振りである。あたかも家族風呂を自分用に独占したような感がある。露天に浸かり、鳥の声を聞きながら、春の陽光の中で黙想に浸る。極楽浄土の幸せの時間。
妻の入浴時間は毎度長く、小一時間は十分掛かる。髪を洗うからだというが、男はどうしようもない。内湯と露天を何度と無く繰り返して、時間を見計らって浴室を出た。休憩室に戻ると妻は入浴前の格好で気持ちよさそうに爆睡中であった。
妻の入浴を待っている間に地元の山師らしい人達がどやどやと部屋に入ってきた。平日の午後三時というのに宴会が始まりそうである。焼酎が運び込まれ、酒が酌み交わされる。ああ、この人達がこの「曙」を支えてくれるのだなと思った。残しておきたい温泉宿の一つであろう。

